ゼロ・グラビティ(原題:Gravity)に思うこと

 去る12/16(Mon.)にIMAX 3D版を観賞して思ったことを載せておきます。ストーリーは分かりやすいですし,考察とか大層なものではないのですが,本投稿の性質からネタバレがあります。未見の方への配慮はあまりないと思うのでご注意ください。ちなみに感想ではないです。



ゼロ・グラビティ、言いたいことが3点あって、紐映画だということ、並びに出産がモチーフっぽいこと、クレジットにギレルモ・デル・トロがいることが確認できて嬉しかったことです。

 これが私がGravity観賞後にTwitterに投げた投稿(IDは鍵垢のため控えさせていただきます)なんですが,観賞した皆さんは一つ目の点には納得できるんじゃないかと思います。

注目すべきは紐!?

主人公であるライアン・ストーン博士を最初の危機から救うのは白い紐ですし,ソユーズに乗り込んでからは朱色の紐が僅かにたなびき,パラシュートとソユーズをつなぐ黄色い紐はストーリー上で憎みたくとも憎めない印象的な存在です。とにかく紐が目立つ映画で,中でも白い紐がよく登場します。この白い紐はライアン博士のお腹の真ん中,ちょうど臍の辺りからカラビナで繋がれています。これは実際の宇宙服を確認してもそうなのでお臍の所で間違いないでしょう。この白い紐が繋がれている先は,信頼のおけるコマンダーであるコールスキーやシャトルのアームですね。人間において臍からでる長い紐というと,ちょっとへその緒っぽいですよね。

 もっと注目すべきこと

私がこういったこととこれから書くことを意識したのが終盤,天宮ごと大気圏に突入する場面です。
 あそこってようやく映画のタイトル(原題)の意味が分かるところなんですよね。つまり何かとても重要な意味が様々込められているんです。そこで主人公は真っ赤に照らされることになる。まぁ機体が燃えてるんですけど。本作で赤い色が出てくるのは確かあそこが初めてですね。本作を後援しているギレルモ・デル・トロ映画監督もおっしゃっていましたが,赤は生命の色です。生命というキーワードがあのシーンで描かれているもののヒントなんじゃないかなと考えられるわけです。結論から言うと,私には脱出ポッドが女性の子宮を表しているように見えてなりませんでした。ちょっとコイツ変だぞ,と思ったらそのままページを閉じて下さって結構です(笑)。脱出ポッドが子宮に見えたというのはもちろんいくつか理由があって,先の「生命」というキーワードに引かれたのもありますが,その前にライアン博士がソユーズに乗り込んだときが重要です。思い出してみて下さい。この映画には長回しのせいだとは思えないほどたくさんの「なぜそれをカメラに映したのか」という点が沢山あります。奥行き感のためにあそこまで白い紐を画面の手前を横切らせるでしょうか。ソユーズに乗り込んでコールスキーを助けに行きたいと言っていたライアン博士が,ソユーズに乗り込んだ途端にすぐさま運転しようとせずただ浮遊していたのはなぜでしょうか。

 彼女が切り抜ける試練の意味

ソユーズに乗った彼女がとった姿勢に注目してみて下さい。まるで,お腹の中にいる赤ちゃんのように背中を丸めて狭い脱出ポッドの中で浮遊しています。へその緒がきれ,信頼を寄せていた存在から離れて胎内に回帰してきたのです。この流れで言ってしまいますが,先の自分のTwitter発言の二点めは「再鍛(not再誕)モチーフ」に変えさせて下さい(笑)。このシーンを考えると,どうも出産=子宮からの生誕ではなくて,再鍛=子宮への回帰と再度の出産だと思うんですよ。あの時は見終わったばかりでとにかく何か言いたかったんで,少し結論を急ぎすぎましたね。話を戻すと,このシーンで彼女は胎内に回帰してきたことになります。いままでの自分を振り返って,頼りにしていた男性を振り返らずに生きるために前を向くことになります。でも,まだまだですよね。前を向く転機は更なる試練のあとにあった幻覚の後ですから。試練と言えば産道の試練が思い出されますが,ソユーズに逃れたことが回帰だとするなら,産まれるまでに産道の試練が必要なわけです。これは,ソユーズに燃料がないことに気づいてから天宮における火事までの一連の流れのことですね。

ウォッカは秘密兵器?

ソユーズの中でライアン博士は死を覚悟するわけですが,その前あたりからかな,初めて水が出てきますね。最初に自分が乗っていたシャトルを探索していた際に出しても良いはずなのに,ここが初出です。ここで出す意味があるんでしょうね。初めて水が出たあとすぐに彼女は涙を流します。涙も水ですね。ここで持ってきたいのが陰陽論です。これはかなり古くからある世界観・方法論で,宇宙の起源に由来をもつといわれているものです。太極拳だかのシンボルマークとして有名ですよね。白と黒の勾玉が二つくっついたようなアレです。陰陽論では,男性は火,女性は水として説明されます。ここで描かれている水は女性の象徴だと考えられるわけです。主人公が胎内で涙=水=女の象徴を流したあと,出てくるのはウォッカ(酒)です。主人公が涙を流す前に遭遇した炎の嵐,陰陽論で炎は男性の象徴ですが,酒は火と水からできているものとされているのです。女性と男性の混ざったものですね。ウォッカが出てくるシーンでは実際の場面でもコールスキーと主人公がコックピットに現れる。整理すると,炎=男性の象徴のあとに涙=女性の象徴が出てきて,酒=男性と女性の混ざったものが出てくる。これは偶然なのでしょうか。面白いですよね。男性と女性が混ざったものがでてきたあと,彼女は活力を取り戻すことになる。脱出ポッド=子宮の中で。そうした後にくるシーンが,生きる活力を再び宿した女性が赤に塗られる先に書いたシーンなわけです。生命の再鍛なんでしょうね。

なぜ再誕ではないのか

そうした産道の試練を通り抜けて着水,彼女は大量に水を飲んでしまう。これは私の中では羊水のイメージです。海は生命の源というのもありますが,これは次の理由の方が私の中で大きいです。あの状況で水面にあがると咳をするのは当たり前ですが,もう少しこのモチーフで掘り下げると分娩後に赤ちゃんに咳をさせることにも関連させられるのではないでしょうか。そして,陸地。無重力の世界に慣れると歩けないと言われますし,体力も消耗していたのでしょうか彼女は立つことができません。生まれたての赤子と同じく。しかし彼女はすぐにたつことができるようになります。これは赤子として産まれ直す再誕ではなく,生命の再度の鍛錬だからできることです。


 ラスト・シーン

こうして彼女が立つことになるのは都会ではなく,原野です。人間が人類として海から進出したときは,きっとこんな原野だったんでしょうね。そういう意味での原野ラストなんだと思います。限りなく「生命」をキーワードとして,一人の女性の魂,生命の再鍛を描く。海外ではやはり「なぜコールスキーが主人公ではないのか?」なんていう話も出ていたようですね(cf.Alfonso Cuaron Defends Having Female Lead In Gravity)。思いつくキーワードで検索してみても,アルフォンソ監督が女性の社会進出や出産等に寄付や援助活動をしていたわけではないようですし(していたらすみません。拙速のリサーチ不足な投稿です。),女性を主人公にしたのは別の理由があるのかなと。ジュース代も合わせて約¥3,000でかなり楽しめる作品に出会っちゃいました。良かったです。

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