ソーシャルゲームへの課金は子どもの趣味なのか

以前までの一点豪華主義

スマートフォンでオンラインゲームを楽しむ小学生が、高額課金をはじめとする消費者トラブルを引き起こし二十万円超の請求をされたというのは、近頃もっともホットなニュースだったと思う。
というのも、この高額課金トラブルには、現代に残る一点豪華主義が感ぜられたからだ。
一点豪華主義とは、賭博主義の傾向からもたらされる思想である。サラリーマンの画一化された日常生活からの脱却は種々の賭博的行為によってなされるが、これは「何か面白いことはないか」と思いながらもなにも起こらない日常に起こる「事件」のようなものだ。
以前までの一点豪華主義はといえば、安飯食いでガマンした週末にはオシャレなバーに行ったり、安宿住まいできらびやかなスポーツカーを購入したりといったものだった。現在でもそれらの活動を好んでいる者はいるが、その一部がソーシャルゲームへの課金することに変わっているのかもしれない。

代わり映えのない世界

サラリーマンという代わり映えのない日常からの脱却が一点豪華主義の傾向を持つ根源であると前項で触れたが、今や代わり映えのない日常を持つのはサラリーマンだけに限ったことではない。サラリーマンの代わり映えのない日常というのはそもそも、変えることのできない与えられた環境を指していた。それは家庭環境のことでもあったし、バランス経済に対する無力感でもあった。となれば、家出をしたがっていた90年代の学生たちが大きくなった世代はもちろん、生まれた時から経済がどん底で、今いる環境を与えられたものだとしか認識できない10代20代の若者もまた代わり映えのない日常を感じているのである。

現代の一点豪華主義

こうした実像からの脱却は賭博的傾向を増長する。そして賭博という行為は虚像を大きく見せるために行うのであって、それが「スポーツカーを乗り回す自分」であったのが近頃は「オンラインゲームで強力な装備をもつ自分」や「オンライン上で強力なコネクションをもつ自分」に変わってきた。
賭博的傾向から来る一点豪華主義は、ソーシャルゲームへの課金という行為を用いて時代に適ったのである。
ふと思い立って汽車の旅に出る自分探しは今、こうして虚構の世界における自分の存在の代わりとなる虚像を大きくするための高額課金という行為にすっかりなり代わった。

なぜオトナのシュミと言われないのか

さて、一部の思想家からこうした行為が幼稚だと言われるようだが、それは現代の賭博傾向があまりに虚構に傾いているからではないだろうか。
最近は目に見えないものを残す体験をすることや、実質無料でできることにお金を払う行為を非難する声も大きい。以前までの一点豪華主義は、先ほど述べたような偽りの自分が現実世界に存在することが多かったのだが、今や偽りの自分はオンラインという虚構の世界に存在することも増えてきた。
つまり彼らの言う”オトナのシュミ”とこうした行為とでは、その目的はなんら変わりがないということだ。
そのことに気がつかず、ただ虚構と実存の差を非難するということは、どこか滑稽である。

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